【略歴】
天文15(1546)年11月29日 小寺(黒田)職隆の長男 として姫路城に誕生。
永禄 5(1562)年 この頃、元服して通称を官兵衛、諱を孝高と名のる。
永禄10(1567)年 家督を継ぐ。
天正 3(1575)年 織田信長に帰属することを決める
天正 6(1578)年 荒木村重の謀反に際し説得に赴くが逆に囚われ牢獄に幽閉される。
天正 7(1579)年 有岡城牢獄より救出される。
天正 8(1580)年 小寺姓より黒田姓に復する
天正10(1582)年 秀吉に従い、備中に進撃。5月、本能寺の変起こる。
天正14(1586)年 九州征伐の軍艦に任じられる。
天正17(1589)年 豊前中津の宇都宮氏を滅ぼす。
文禄 2(1593)年 秀吉の勘気を被り、難を避けるため剃髪し如水円清と号し、謹慎する。
文禄 5(1600)年 関ヶ原の戦い。如水は別府石垣原の戦いで大友勢を撃破。12月、筑前に入封する。
文禄 9(1604)年 3月20日、59歳で死去。
「黒田官兵衛(孝高/如水)」は、天文15年(1546)に播磨国の姫路で生まれた戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名です。
軍略や外交面でたぐいまれな才能を発揮し、豊臣秀吉の参謀(軍師)として活躍しました。
天正14年(1586)、大友宗麟からの要請で九州征伐に参加し、各地での戦勝に貢献しました。
九州平定後の天正15年(1587)から中津城の築城を開始し、初代中津城主となりました。
天正17年(1589)には家督を子供の長政に譲り、「如水軒」と号したことから、「如水」の名でも広く知られています。
また、「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもありました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでの褒美として、徳川家康から筑前国名島(福岡) へ加増移封となりましたが、その後は、中央の政治には関与せず、大宰府天満宮に草庵を構えるなど隠居生活を送り、慶長9年(1604)、京都伏見で波乱に満ちた59年間の生涯を閉じました。
官兵衛がその礎を築いた「城下町中津」は、近年の調査で、黒田時代にある程度なされていたことが判明しています。
また、中津城では、黒田時代の石垣を見ることができます。
平成25年2月5日、中津沖代ライオンズクラブ、豊前國中津黒田武士顕彰会より図書館へ黒田官兵衛コーナー設置の書棚と図書35冊の寄贈をいただきました。
ご寄贈いただいた書棚は、小幡記念図書館の郷土資料コーナー前に設置し、あらたに「黒田官兵衛コーナー」を設けました。
黒田官兵衛と一族に関連する書籍、黒田官兵衛と争った豊前地方の豪族・豊前宇都宮氏(城井氏)に関する書籍、ご寄贈いただいた火坂雅志氏(『軍師の門』作者)の著作などを展示・貸出いたします。
関連書籍は新刊や未所蔵のものなど、入手できるものは随時所蔵していきます。ぜひご利用ください。